読書・映画日記 -2024年4月
🎬 ザ・ノンフィクション「私の父のなれのはて ~全てを失った男の楽園~」
ディレクター:粂田剛 放送:日(2024)
録画したやつ見たらすごいおもしろかった。
商売するために50代半ばでマニラに渡り、開業資金を知り合いにカジノで溶かされ帰国もできず、現地の人の家に転々としながら何だかんだで結婚してはや10年…みたいな話。撮影開始されたのが2014年、主人公の平山さんという男性は64歳。日本に離婚した妻との娘が一人いる。
現地で結婚した(というか内縁の妻)女性は当時40代で、前の夫との間の娘が一人、平山さんとの間の娘が二人(だったと思う。うろ覚え)。平山さんにはまともな稼ぎがないので、実質、妻が内職とかで家族を養っている。たまたまTVで映ってたところだけかもしれないけど、この二人は言葉もあまり通じてないように見える。でもなんだか仲はよさそうで、すごく不思議だった。妻は、単に本当に平山さんが好きなだけのか、女はそんなもんだと諦めているのか本当にわからないんだけど、ただニコニコ働いて生活している。
一方の平山さんは、わけのわからん日本人の爺さんを連れ込んで数ヶ月も家に住まわせてご飯を食べさせ、最後には亡くなってしまってお墓まで作ってあげたりする。時々、何か仕事をしてはみるけど、結局うまくいかない。看取った爺さんが信じていた与太話を解決するために、わざわざ長距離バスで遠方まで出かけ、なんの収穫もなく帰ってきたりする。いやそれ全部妻の金では……と思うけど、なんかその辺りについて喧嘩したりもしない。平山さんは終始穏やかで、のんびり幸せそうに見える。でも日本語の歌を歌ったりしてるのを見ると、孤独で仕方ないようにも思える。
見終わった後は、はー面白かったなー程度だったんだけど、時間が経つにつれ、あれはしかしものすごく男にとって都合の良いだけの話だったのではなかろうか……という気もしてきた。なんだかじわじわと凹む。
ネタバレはしたくないのでざっくりだけど、なんだかんだ言ってここで取り上げた人たちの中で最も割りを食ったのは妻、次に娘たちだと思う。番組終盤では平山さんと血のつながっていない長女は25歳になり、日系企業で働いて今度は彼女が一家の食い扶持を稼いで、なおかつ家事までやっている。そして平山さんは足腰が弱って車椅子生活である。
なんかそれって……それって男がものすごくイージーモードすぎんか?? と思った。日本で離婚して娘ほったらかしにしてフィリピンで現地の女の人と結婚して子供作って働かず養ってもらって、おそらく老後はこのまま娘たちに世話してもらって死ぬのだ。十中八九、日本には帰れないままだろうけど、なぜか日本の娘も「お父さんに会いたい」とか言ってくれちゃうのだ。
これが男女逆だったら果たして許されただろうか? 中年の女性が日本で離婚して息子を放り出してフィリピンに渡り、他人の家に転がり込み、現地の男性と結婚し、働きもせず同郷人を時々家に連れ込み、将来その家の血の繋がってない息子に養ってもらうことが可能だろうか? その時、世間はどんな目で彼女を見るだろうか? 息子はその母親を許すだろうか? そもそも言葉も通じない国で、女一人が他人の家に無事転がり込むところまで辿り着けただろうか?
フィリピンの妻は、3人の娘たちは、本当のところはどう思っていたんだろう。女ってそんなもんだと思って諦めていたんだろうか。転がり込んだ男のために病院にも行けなかった母のことを、娘はどんな目で見ていたんだろうか。
本作のディレクター、粂田剛さんはこのフィリピンでの日本人たちを題材に2本映画を撮っていて是非見てみたいと思う。
でもきっと、そこでも女たちは何も語らず、ただ静かに働くだけのような気がして仕方がない。彼女たちの声が聞いてみたいと思った。
(2024年4月29日鑑賞)
🎬すずめの戸締まり
監督・脚本・原作:新海誠 公開:日(2022)
今までの経験上この監督とは反りが合わないので今回もどうかなあと思っていたのだけど、売れたしまあ一応TVで流れたやつを録画して見てみる。
結果、やはりダメであった。登場人物の誰もが理解し難いし、設定そのものも微妙で説得力に欠ける。ひとつひとつの各場面ではいい雰囲気っぽくて、一昔前の言い方をすれば「エモい」んだと思うけど、全体としてみると単純に話の筋が通らない。というか不明瞭すぎる。結局この映画は女子高生が恋愛がいちばん大事、震災はただの舞台装置であって、恋愛成就の障害になるならばあれが震災だろうが戦争だろうがただの喧嘩だろうが記憶喪失だろうがなんでもよかった気がする。
あとあの、実在企業を入れ込むのは経済的には旨味があるんだろうけど、興醒めするので私は好きではない。企業に擦り寄ってるだけにしか見えないので。
(2024年4月23日鑑賞)
🎬ゴーストバスターズ/アフターライフ[Gorstbusters: Afterlife]
監督:ジェイソン・ライトマン 脚本:ギル・キーナン、ジェイソン・ライトマン 公開:米(2021)日、(2022)
なんか…こう、これは…ダメなのでは? という面白くなさだった。
80年代のゴーストバスターズをほぼリアルタイムで見ている世代なので(内容はほぼ覚えてないけど、あの能天気なノリは覚えてる)、なんかゴーストバスターズにしては暗くて、これ本当にゴーストバスターズなのかな? と思ってしまった。
ゴーストバスターズってあの音楽流しながらビームぶちかましてイエーイ! みたいなノリの良さが信条のコメディだった気がするんだけど。テンポも悪いし、うーんうーん、なんでこうなっちゃったんだ。
2016年のゴーストバスターズは面白かったのに残念。
(2024年4月20日鑑賞)
📕ひきこもりグルメ紀行
著者:カレー沢薫 出版社:ちくま文庫(2020)
控えめに言って最っ高。
カレー沢さんの書くものを読み始めたきっかけは夫なんだけど、その後すっかり私が好きになって見かけると手にとってしまう。本職は漫画家さんだが、言語センスが抜群で、おもしろすぎて一人で読んでても、普通に吹き出す。そんな文章、なかなか書けるもんじゃないっす。
本書では、ひつまぶしの回が涙なしには読めない面白さでした。うなぎ7切れでここまで面白い文章が書けるのか。尊敬しかない。
そして、全国津々浦々、いろいろ食べたいものが増えちゃった。くるみッ子とサラバンド、ういろう(山口)はなんとかゲットしたいところ。
(2024年4月10日読了)
📕けものたちは故郷を目指す
著者:安部公房 出版社:岩波文庫(2020)※発表は1957年
一人の少年の冒険譚…というにはあまりにも暗いけど、話の筋は明確で時系列に沿っておりとても読みやすい本だった。そいういう点では安部公房っぽくない。しかし、人間、風景、飢餓などあらゆる描写はまさに阿部公房。臭いや味がしてきそうな重く緻密な日本語だ。
いったい久三はどこで間違えたのか、どうすれば救われたのかと考えてしまう。でも、作中でも書かれていたように、そもそも初めから間違えていたのかもしれない。……というよりも、正しいか間違えたのかなんてことに意味はないのかもしれない。
日本に帰りたいと願う久三は日本人であるにもかかわらず、実際には日本的なものには酷い目にしか遭わされない。まずは生まれ育った巴哈林で日本人コミュニティから母と共に置き去りにされ、旅の途中で出会う日本語の本を読む男に利用され、街で出会った日本人に連れ込まれた日本籍の船ではさらに酷い目に遭う。久三は、彼が望む故郷「日本」からは、常に爪弾きにされ決して迎え入れられない。多少なりとも久三を受け入れ親切にしてくれるのは、巴哈林のアレクサンドロフたち、馬車で通りかかった親子、犬殺しの少年だけである。残念ながら、最後の壁の一枚向こうにあった「日本」だって、果たして久三を受け入れたかどうか怪しいと思う。こういった時の日本人の酷薄さは戦後も現在も変わりはしない。船長が言うように、仮に日本に帰れたとしても浮浪児になるのが関の山だったのではないだろうか。それとも、浮浪児であったとしても、日本の土を踏むことこそが久三の幸せだったのだろうか?
飢餓という生存に最も脅威を与える状況も苛烈であるが、人界であらゆる扉が自分には閉ざされているという状況もまた苛烈だ。逆にどこかに繋がれるのだって、もちろん苛烈だ。
そういうことを考えると、やっぱりこれは安部公房の作品そのものだった。
(2024年4月6日読了)
📕料理と利他
著者:土井善晴、中島岳志 出版社:ミシマ社(2020)
家庭料理は民藝だという土井さんの話が面白かった。家庭料理には作家性がなく、生活のために使われるもの、というのはたしかに民藝そのものだ。そんなふうに考えたことがなかったけど、そういえば、イラストもそんな感じかもしれないと思った。現在は作家性を売りにするイラストレーターが多いけど、かつてイラストレーションなんて言葉のなかった頃、図案とか挿絵とか呼ばれていた頃は、わりと民藝的だったのかもしれない。
ケとハレの話も、改めて復習できてよかった。神様と同じものを食べるハレと、弔いごとのケ、それから、時にはささやかなハレもあるけどあくまで日常のケハレがある。料理するためにいろんな人いろんな本のレシピを見てると、例えば同じような煮物でもやり方が違ってたりしてちょっと混乱してたけど、このケとハレの違いだったのかと納得した。
利他とは何なのか、は、分かりそうで分からない、分からなさそうで分かってるような、なんとももどかしい感じ。でもなんとなく分かる気がするなあ。
「人のためにいいことをしよう」という聖道の慈悲、これは分かりやすいし、人にも伝えやすい。でもこれには多少なりとも「自力(自分をよく見せよう)」が入り込んできてしまうし、だから感謝だったり見返りを求めがちになってしまう。それに対して浄土の慈悲は自分がやろうというよりも、うっかり思いがけずやってしまうような慈悲。転びそうな人にさっと手を出すような、やろうと思ってやるのではなくて、つい体が動くようなこと、それが浄土の慈悲だという話。わかる……、けど難しいよねこれは。
なんていうか、基本的に私は性善説を信じているので、人というのは人を自然に助けるものだと思ってはいる。思ってはいるんだけど、そこに付け込むやつらというもの確実にいて、そいつらを許すことができないんだよなあ……。
でもそれって、そうやって許せないと思ったりすること自体が駄目なんだろうか。本当に、分かりそうで根本的に分かってない気がして仕方がない。
利他については引き続き考えていきたい。
(2024年4月1日読了)